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東京地方裁判所 昭和54年(ワ)5999号 判決

甲事件原告兼乙事件原告(以下単に「原告」という。)

永山則夫

甲事件被告(以下単に「被告」という。)

佐藤亮一

甲事件被告(以下単に「被告」という。)

野平健一

右被告両名訴訟代理人

多賀健次郎

萩原秀幸

乙事件被告(以下単に「被告」という。)

野間惟道

乙事件被告(以下単に「被告」という。)

三浦宏之

乙事件被告(以下単に「被告」という。)

藤田学

右被告ら三名訴訟代理人

水谷昭

外二名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

第一(事実関係)

一(原告の刑事公判の経緯等について)

原告が昭和五四年三月当時東京地方裁判所における強盗殺人等被告事件の被告人であることは原告と甲事件被告らとの間に争いがなく、原告が同年七月九日当時東京地方裁判所における強盗殺人被告事件の被告人であることは原告と乙事件被告らとの間に争いがない。右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

1  原告は、昭和四四年五月二四日、殺人・強盗殺人・同未遂・窃盗・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反被告事件につき、東京地方裁判所に公訴を提起された。

公訴事実の要旨は、次のとおりである。

(一) 原告は、昭和四三年一〇月初めごろ、神奈川県横須賀市在日米海軍横須賀基地内において、二二口径小型けん銃一丁、同銃弾五〇発位、米国製ジャックナイフ一丁等を窃取した。

(二) 原告は、昭和四三年一〇月一一日午前零時五〇分ごろ、東京都港区芝公園三号地東京プリンスホテル敷地内において、警備員中村公紀の頭部を、前記窃取のけん銃で二回狙撃し、同人を死亡させた。

(三) 原告は、昭和四三年一〇月一四日午前一時三五分ごろ、京都市東山区祇園町北側六二五番地八坂神社境内において、警備員勝見留治郎の頭部・顔面を、前記けん銃で四回狙撃し、同人を死亡させた。

(四) 原告は、昭和四三年一〇月二六日午後一一時一三分ころ、北海道亀田郡七飯町大字大川一六四番地秋田吉五郎方前路上において、タクシー運転手斎藤哲彦の頭部・顔面を、前記けん銃で二回狙撃し、同人の反抗を抑圧して、同人所持の売上金八七〇〇円位及び釣銭三〇〇円位在中のがま口一個を強取し、翌二七日午前八時一五分ごろ同人を死亡させた。

(五) 原告は、昭和四三年一一月五日午前一時二五分ころ、名古屋市港区七番町一丁目一番地付近路上において、タクシー運転手伊藤正昭の頭部を、前記けん銃で四回狙撃し、同人の反抗を抑圧して、同人所持の現金七四二〇円位在中の布袋一個及び同人所有の腕時計一個を強取し、同日午前六時二〇分ごろ同人を死亡させた。

(六) 原告は、昭和四四年四月七日午前一時四〇分ころ、東京都渋谷区千駄ケ谷三丁目七番一〇号一橋スクール・オブ・ビジネス事務室内において、窃盗の目的で金品を物色中、警備員中谷利美に発見され逮捕されようとしたため、前記けん銃で同人を二回狙撃したが、命中せず、同人を殺害するに至らなかつた。

(七) 原告は、法定の除外事由がないのに、昭和四四年四月七日午前五時八分ごろ、東京都渋谷区代々木一丁目一番地先明治神宮北参道路上において、前記窃取したけん銃一丁及び火薬類である銃弾一七発を所持した。

2  原告は、第一回公判期日において、前記1(二)の事実について、当初より殺そうという意思はなかつた旨、及び、前記1(五)の事実について、財物を強取しようという意思が生じたのは狙撃した後である旨陳述したが、その余の公訴事実については間違いない旨陳述した。

3  昭和四六年六月一七日の公判期日までに証拠調が終つた。検察官は、同日の公判期日において、事実及び法律の適用について意見を陳述し、死刑を求刑した。

4  原告は、昭和四六年六月一九日付をもつて、原告の弁護人である助川武夫弁護士、池田浩三弁護士及び鈴木晴順弁護士を解任し、同月二一日裁判所にその旨届け出た。原告は、同月二二日、山本博弁護士を弁護人として選任した。同年七月五日には、森長英二郎弁護士を弁護人として選任した。更に、後藤昌次郎弁護士を弁護人として選任した。弁護人らは、東京地方裁判所に対し、後藤昌次郎を主任弁護人に選任する旨届け出た。

5  昭和四六年七月二九日の第二六回公判期日において、主任弁護人は、準備をする余裕がなかつたので、あらかじめ指定してあつた次回期日を変更してほしい旨求めた。堀江一夫裁判長は、当初から長期間にわたつて原告のため献身的に弁護を担当してきた助川弁護人らが最終弁論の直前に突如解任されたことは、如何なる理由があるにせよ甚だ遺憾であること、そのため公判期日の変更を余儀なくされ、結果的には訴訟が遅延し、その間やむを得ない事情により裁判官がかわらざるを得ないことは、直接審理主義を原則とする第一審の裁判にとつて大きな損失であること、しかしながら、事案の重大性にかんがみ原告の希望する弁護人による弁論の機会を与えるのが相当と考える旨の裁判所の見解を明らかにし、次回期日を取り消し、期日を追つて指定することにした。

6  原告は、昭和四六年一〇月二二日、木村壯弁護士を弁護人に選任し、同年一一月一八日、小野誠之弁護士を弁護人に選任した。後藤主任弁護人は、木村弁護人を副主任弁護人に選任した。

7  昭和四六年一二月一日の第二七回公判期日において、裁判官がかわつたため、公判手続の更新が始まつた。公判手続更新のうち証拠調の手続は、昭和四七年六月一九日の第三一回公判期日までに終えた。

その間、弁護人らは、検察官に対し、釈明を求めたり、公判手続の更新について意見を述べた。

そして、原告も、積極的に意見陳述を行つている。すなわち、第二七回公判期日(昭和四六年一二月一日)において、原告は、本件事件を単なる物取り的犯行とみなし、それが故の殺人だとすることは、原因を無視した短絡したものでしかない、因果法則は、先に原因があつてから結果が生じるものであるが、従前の審理方法は、原因を抹消している、本件事件あるいは下層人民いわゆるルンペンプロレタリアートが犯している事件を根底的なものから裁く方法にもつていくために、原因を説明するマルクス主義的経済学者を当公判廷に必要とする旨陳述した。第二八回公判期日(昭和四七年一月二〇日)においても、原告は、血税を払つている国民に対して済まなかつたということをわかつてほしい旨陳述し、更に、こういう非惨な事件を説明するにあたり、どうしても経済学者が必要である、なぜならば、原告の生いたち、小さいころの経済状態がどうであつたかを考える場合、単なる個人的な問題としてみていいか疑問であり、唯物論的なものの考え方をもつ人に調べてほしいからである旨陳述した。原告は、第二九回公判期日(昭和四七年四月六日)にも、本事件を説明するには経済学者が必要である旨陳述している。

なお、原告は、昭和四七年七月二五日、馬渡尚憲及び杉浦克己を特別弁護人に選任した。

8  昭和四七年九月一四日の第三二回公判期日から、弁護人らの冒頭陳述が始まつた(なお、当日は弁護人側から証拠申請までを行う予定であつたが、準備ができなかつた。)。弁護人らの冒頭陳述は、昭和四八年一〇月一二日の第四二回公判期日までかかり、同日、公判手続の更新を終了した。弁護人らは、同日、原告の精神鑑定を請求した。

9  ところで弁護人らの右冒頭陳述は、永山事件の原因、永山事件の経過及び事件後の自己変革について述べた詳細なものであつたが、弁護人らは、その基本的立場を次のとおり明らかにした。すなわち、第一に、永山事件について、事件の動機や経過、結果だけをあげて判断するのは誤りであつて、事件の原因を徹底的に追求せねばならない、原因追求をいいかげんにして、永山を手際よく裁いてしまおうとするあらゆる試みと対決する、第二に、行為を行つたのは永山であるが、永山の意識は彼の置かれていた経済、社会状態によつて決定されていた、告発され追求されるべきは、少年永山をそこまで追い込んだ貧困の深さであり、その貧困から解放してやれない、それどころか貧困の故に差別し疎外し人間を歪めてゆく経済、社会制度であり、福祉制度であり、教育のあり方である、第三に、永山が少年にしてあらゆるものから疎外されあらゆるものを失つた最下層のルンペン・プロレタリアートであり、教育からも疎外されていたが故に、その自分の置かれている状態を意識化できないで、ただ生きるためにあるいは生死の中を行動せざるを得なかつたのが、事件の真因であり、彼をルン・プロにまで追いやつたものこそ徹底して解剖されるべきである、事件の原因を彼本来の性格に求めることはできない、第四に、永山裁判は単に永山のためにあるのではなく、永山と同じく最下層にある労働者を犯罪から解放するという重大な社会的使命をもつている、最下層労働者が犯罪から解放される途は、自分たちの置かれている社会状態を自覚し階級意識をもつこと、及び、根本的にはそうした階層を生み出す経済制度自体を変革する主体になつていくことの他にはない、永山の究極の主張もそこにあると考えられるので、弁護団は、永山を弁護すると同時に、そのことを永山と歩調を合わせて主張していく、第五に、かといつて、永山は自分の犯した事件について原因を全く自分の外に求めて、ひらきなおろうとしているのではない、自分の事件について、特に人民、それも労働者を殺害したことを深くわびている、弁護団は、右のような考えによりながら、永山を絶対に死刑に処すべきではない、永山事件の原因の一端は現在の経済制度、社会制度である以上、そこに何も手を付けないで責任を永山個人に全部かぶせて判決を下そうとすること自体を認める訳にいかない、と主張するものである旨陳述した。

10  また、右公判手続更新中の第三九回公判期日(昭和四八年五月四日)において、原告は、昭和四三年一一月中旬ごろ、静岡で銀行の預金通帳を盗んで放火し、預金をおろすとき警察官に追われた(いわゆる静岡事件)旨余罪を告白した。

11  昭和四八年一一月二八日の第四三回公判期日において、裁判所は石川義博に鑑定を命じ、裁判長は次回期日を追つて指定とした。

12  後藤弁護人は、昭和四九年九月二一日、東京地方裁判所に対し、都合につき弁護人を辞任する旨届け出た。原告は、昭和四九年一〇月二三日付をもつて、木村弁護人、小野弁護人及び杉浦特別弁護人を思想的不一致により解任した旨届け出た。ところが、原告は、昭和五〇年三月二七日、木村弁護士を再度弁護人に選任した。森長弁護人は、昭和五〇年四月四日、「主任弁護人らが解任されたとのことでありますが、私はとうてい弁護人としての職責を果すことができませんので、辞任することをおゆるし願います。」と記載した辞任届を裁判所に提出した(同弁護人は、公判廷に出頭することが少なかつた。)。

なお、山本弁護人は、後記のとおり、昭和五〇年六月二一日、辞任する旨を届け出ている(同弁護人も、実質的な弁護活動をほとんど行つていない。)。また、馬渡特別代理人は、昭和四九年以降、転居のため、事実上弁護活動を行つていなかつた。

13  昭和五〇年四月九日の第四四回公判期日において、裁判官がかわつたので、公判手続の更新を始めた。原告は、右期日に意見陳述を行つたが、その中で弁護人の問題について、次のように述べている。すなわち、後藤弁護人が理由にならない理由のため辞任し、これを契機に一旦一人の特別代理人を残し弁護団を解任した、原告の弁護団をはじめとする市民が、静岡事件等に関し国家公務員が刑法一〇三条及び六三条に違反しているのを看過していることに耐えられなかつたことにもよる、資本制社会の下層民が罪を犯すと重く罰し、国家権力側の人物の犯罪には責任追及の態度が甘くなるという市民社会の不合理を訴えるため、“連続射殺魔”永山則夫名義で「死刑廃止のため全弁護士選任を訴える」と題する訴えを昭和五〇年一月二四日に行つた旨陳述した。

14  昭和五〇年六月三日の第四五回公判期日では、更新手続における弁護人の公訴事実に対する意見陳述を行う予定であつた。ところが、木村弁護人は、弁護人の選任問題について原告との打合わせをする必要が生じたので、期日の変更を申し出た。裁判長は、これを認め、期日を追つて指定することにした。

15  木村弁護人は、原告と面会し話し合つた。しかし、原告から、辞任するよう電報で申し入れられ、原告との信頼関係を維持していくことが難しいと判断し、同弁護人は、昭和五〇年六月一七日、裁判所に対し、弁護人を辞任する旨届く出た。山本弁護人も、同月二一日、弁護人の辞任届を提出し、原告の弁護人は存在しなくなつた。

16  裁判所は、昭和五〇年六月二三日弁護人選任に関する通知を原告に送り、本件は弁護人がなければ開廷できない事件であり、弁護人を選任するかどうか、尋ねた。原告は、私選弁護人を至急選任する旨回答した。しかし、選任が遅れたため、裁判所は、弁護人の選任手続を同年八月一一日までに行うよう求めた。右期日である八月一一日に、“連続射殺魔”永山則夫の裁判の現状を知り金を集める会の代表と称する三名が、裁判所を訪れ、原告の気持が十分理解できて信頼関係のある弁護人を選任できるまで待つてほしい旨申し入れた。

17  昭和五〇年九月一〇日になつて、原告は、鈴木淳二弁護士を弁護人に選任した。昭和五〇年一〇月二二日の第四六回公判期日は、弁護人の準備のため期日を延期し、あらかじめ指定してあつた次回期日同年一一月六日を取り消し、次回期日として同年一二月一八日を指定した。昭和五〇年一二月一八日の第四七回公判期日において、弁護人の意見陳述が行われたが、次回期日は追つて指定することになつた。

18  その後、次回期日は昭和五一年三月二日と指定された。しかし、鈴木弁護人は、裁判所に対し、更新手続進行上の意見調整、精神医学についての知識獲得、弁護人団形成、更には静岡事件の扱い方等問題があるので右期日を取り消してもらいたい旨申し入れた。そこで、右期日は取り消され、次回期日は同年四月二八日と指定された。しかし、鈴木弁護人は、原告が、警察は静岡事件について原告を不問にして原告を泳がせ、それ以後の事件を犯させたのであるから、静岡事件について意見を述べ取調べをしてもらわないかぎり更新手続に応じられないと述べている旨裁判所に報告し、弁護団結成のためと更新手続の方法について相談するため右期日を再度延期してほしい旨申し入れた。裁判所は、更新手続について簡略・迅速な方法で終了させたい。裁判所の期日計画に添つて計画していく旨の弁護人からの申し出があつたので、右期日を同年六月一〇日と変更することにした。

19  昭和五一年五月二八日、早坂八郎弁護士が、原告の弁護人に選任された。同日に行われた打ち合わせで、弁護人らは、原告が静岡事件について陳述を認めてもらいたい、求釈明をしたい等を強調しており、引き続き原告と意見調整を行うが、原告が更新手続とその後の手続内容について不安と疑惑をもつているので、裁判所から直接原告に更新手続について説明してもらいたい旨提案した。裁判所は、同年六月一〇日に準備手続期日を開き、今後の審理方針を原告に伝えることにした。同年六月一〇日には、中北龍太郎弁護士も弁護人に選任された。

20  昭和五一年六月一〇日に準備手続期日が開かれた。右期日において、西川潔裁判長は、原告に対し、更新手続に関する裁判所の見解を説明し、静岡事件については、原告の主張が静岡事件を起訴していないから起訴して調べてもらう、あるいは、起訴しないまでも事件の内容を裁判所に調べてもらいたいということであれば、裁判所の権限外のことであり、不可能な問題である。しかし、警察が静岡事件は原告の犯行であることを承知しながら小さい事件を放置しておけばいずれ大きい事件を犯すということで放つていたため事件が起きたという趣旨で、不問に付した意図を調べるということであれば、裁判所は更新手続終了後に右趣旨に添つた調べをすることを考慮する用意がある旨述べた。

21  昭和五一年六月一〇日の第四八回公判期日で、裁判所は、前記準備手続の結果を明らかにしたが、裁判官のかわることが予定されたため、更新手続に入らなかつた。

22  昭和五一年九月二一日の第四九回公判期日において、裁判官がかわり、公判手続が更新された。弁護人は、起訴されていない静岡事件について釈明を求めた。簑原茂広裁判長は、求釈明は公判手続の更新が終了した後の問題であるとして、右求釈明を採り上げなかつた。右求釈明をめぐり、法廷は紛糾した。原告は、静岡事件を起訴しないと一切の審理が進まない、静岡事件を追起訴しない段階の法廷あるいは更新手続を認めない旨陳述した。裁判長は、次回期日に弁護人及び被告人の意見陳述があればこれを認める、ない場合には証拠関係の更新手続に入る予定である旨告げ、次回以降の期日を指定した。

23  その後、検察官及び弁護人から、それぞれ静岡事件に関する証拠調が請求された。裁判所は、昭和五二年四月一九日、検察官申請の証人川口本一及び双方申請の証人北野一男を採用し、次回公判期日の昭和五二年四月二六日に取り調べる旨決定した。

24  昭和五二年四月二六日の第五五回公判期日において、証人川口本一及び同北野一男が取り調べられた。右期日に、弁護人は、公訴棄却を申し立てた。右取調終了後、簑原裁判長は、次回期日に石川鑑定人を証人として取り調べたい旨述べた、これに対し、弁護人らは、静岡事件の事実関係を取り調べてほしい旨要求して、訴訟進行について意見が対立した。

25  裁判所は、昭和五二年五月一八日、職権で鑑定人石川義博を次回期日の昭和五二年五月二四日に証人として取り調べる旨決定した。

26  鈴木弁護人及び早坂弁護人は、昭和五二年五月二三日、弁護人を辞任する旨それぞれ届け出た。昭和五二年五月二四日の第五六回公判期日は変更され、次回期日は追つて指定とされた。中北弁護人は、同日、弁護人を辞任する旨届け出た。

27  裁判所は、原告に対し、昭和五二年五月三〇日付書面をもつて、弁護人選任に関し照会し、弁護人を選任する場合には同年七月一五日までに選任届を提出するよう求めた。原告は、私選弁護人を選任する旨回答した。しかし、弁護人は、選任されなかつた。

28  裁判所は、東京弁護士会長にあてた昭和五一年一一月一一日付「国選弁護人ご推せん方依頼について」と題する書面をもつて、同年九月二日付で国選弁護人の候補者推せんを依頼したが、推せんがないので、本年一二月一五日までに推せん願いたい旨再度依頼した。東京弁護士会は、原告の弁護人を希望する者がいないことから、国選弁護運営委員長及び同副委員長五名の計六名を推せんした。裁判所は、弁護人の数は二名、多くとも三名が適当と考えていたので、弁護人の人数について、裁判所と弁護士会との間で話し合われた。しかし、右話し合いはまとまらなかつた。裁判所は、昭和五三年三月一六日付をもつて、秋知和憲弁護士、青柳孝夫弁護士及び内藤義三弁護士の三名を原告の強盗殺人等被告事件につき弁護人に選任する旨決定した。

29  昭和五三年五月一七日に第二回準備手続期日、同年六月八日に第三回準備手続期日が開かれたが、いずれも原告は弁護人らに対し暴言を吐いて退任を命じられた(例えば、六月八日の期日には、「一旦辞任せよ」「辞任闘争を俺達と一緒にやれ」といつた趣旨の発言を大声で行つている。)。

30  昭和五三年九月六日の第五七回公判期日以降、国選弁護人らは、静岡事件の不起訴記録を取り寄せて静岡事件を検討したうえ、証人四名及び捜査記録の証拠調を請求した。裁判所は、証人二の木忠雄及び同一毛憲二を採用して取り調べるとともに、右捜査書類を取り調べた。また、弁護人から請求のあつた石川義博も、証人として取り調べられた。

この間、原告は、法廷において、弁護人の辞任を要求する発言等を繰り返し、再三退廷を命じられている。

31  昭和五四年二月二八日の第六三回公判期日において、裁判所は、被告人質問を行おうとした。しかし、原告は、「生存競争をするためにはお互いに殺し合うしかないんだ」「その前に弁護団を解任せい」などと大声で発言し続けて、被告人質問に応ぜず、退廷させられたため、被告人質問は行われなかつた。検察官は、昭和四六年六月一七日の第二四回公判期日に行つた論告を補充する意見を陳述して、論告補充書を提出した。弁護人は、重大事件であるので、論告が終わつた段階ではあるが、再度被告人質問の機会を与えてほしい旨申し入れた。裁判長は、これを認め、被告人質問を行うため次回期日を指定した。

32  昭和五四年三月一三日の第六四回公判期日において、原告は、「少年法を改正するために泳がしていた静岡事件に対してどう思つているんだ」などと発言し、さらに傍聴席に向かつて、「国民に与えられている抵抗権、あるいは革命権を行使しなければならないんだ」「静岡事件を追及することだ」などと発言して、被告人質問に応ぜず、退廷を命ぜられた。昭和五四年五月二日の第六五回公判期日においても、原告は、退廷させられた。弁護人は、弁護人の意見陳述の前に原告に最終陳述の機会を与えるため、原告の再入廷を許可願いたい旨申し入れたが、許可されなかつた。弁護人は、意見の陳述を始めた。昭和五四年五月四日の第六六回公判期日において、弁護人らは、前回に引き続き意見陳述を行つた。弁護人の意見陳述の際、原告は、発言禁止命令を無視して、「静岡事件を追及すると、少年法を改正するために泳がしていたことと、それから三億円事件がわかる。こつちの方がこの四件の殺人事件よりも重要だぞ」などと発言を続けたので、退廷させられた。弁護人の意見陳述終了後、原告は、再入廷を許可され、最終陳述の機会が与えられたが、静岡事件についての発言を繰り返えすだけであつた。

33  昭和五四年七月一〇日の第六七回公判期日において、裁判所は、原告を死刑に処する旨の判決を宣告した。(なお、右判決が、弁護人の静岡事件に関する主張について、「弁護人が主張するように、警察官が被告人を尾行した事実は認められず、警察当局は、本件各犯行を「広域重要事件一〇八号」と指定して全国的規模の捜査を行なうなど鋭意犯人の発見に力を尽したにもかかわらず、本件被告人逮捕に至るまで、右一〇八号事件の犯人は全く判明せず、従つて被告人が右犯人であると特定することができなかつたものと認められるから、警察当局が被告人を犯人であることを知りつつ逮捕せず泳がせておいたことを前提とする前記弁護人らの公訴棄却の申立は、理由がなく、採用できない」と判示し、量刑の事情として、「被告人は、当初捜査官に対しては、「すまなかつた。」「申訳ないことをした。」旨述べたり、やがて後記のように自己の著作の印税を函館事件の被害者の遺族に贈るなどして、一時は改悛の情を示すような点も見受けられ、また、いわゆる静岡事件を自白したが、全般的にみると、被告人は、本件各犯行についてその原因を自己の責任ではなく、貧困と無知を生み出した社会や国家のせい、資本主義のせいであるとし、また、幼いころからの母親の愛情のなさ、兄たちの思いやりのなさを非難し、或いは保護観察中に保護司等が勤務先に訪ねてくるなどしたために転職せざるをえず更生できなかつたなどと述べて、他罰的、自己中心的な性格をあらわにしており、その法廷での態度をみると、弁護人、検察官、裁判官に対し、罵言を浴びせたり、脅迫的言辞を発したり、暴行を加えようとする態度を示すなどし、とくに、国選弁護人に対しては、辞任を強要しようとさえした。その他、法廷では、「情状はいらない。後悔しない。」と述べ、被告人が犯したといういわゆる静岡事件を起訴しなければ本件の審理に応じないとして審理を妨害したり、三回にわたり弁護人を解任したり辞任させるに至つたりした。このように、被告人は、一〇年に及ぶ長い拘束期間中に読書も重ねていて反省をする機会も十分にあつたにもかかわらず、自己の犯した重大な犯罪に対する改悟反省は認められず、自己中心的、他罰的、暴発的、非人間的なその性格は根深く固着化していて、証人石川義博の、被告人の改善は可能であるとの証言にもかかわらず、その改善は至難と思われる。」と、あるいは「未決勾留が長期に及んでいるが、その主たる原因は、被告人がつくり出したものであるから、これをあまり重視できない。すなわち、被告人は、昭和四六年第一次論告が行なわれて以後弁護人を三次にわたつて解任し或いは辞任するに至らせ、また、静岡事件の起訴を求めこれが容れられるまで審理に応じないと主張するなど審理を遅延させる原因を自らが生じさせたものである。」と判示していることは、当裁判所に顕著である。)。

二(原告及び関係者の言動について)

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

1  未決勾留中の原告は、昭和四四年七月、詩の作成その他勉学のため、ノートの使用を許可された。原告は、右ノートに「無知の涙」との表題を付して詩だけでなく、読破した書物(原告は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や「資本論」をはじめ数多くの文学書、哲学書等を読んでいる。)についての感慨や批評を書きつづつた。右ノート(五十数ページの普通の大学ノート)は、昭和四五年末現在で一〇冊に及んだ。

2  右ノートの存在は雑誌にとり上げられた。原告及び永山事件に関心を持つた人々(その中には、井出孫六、井上光晴らのいわゆる文化人と呼ばれる人もいた。)は、永山事件の法廷を傍聴したり、文通等により原告と積極的に接触した。

3  原告と接触した雑誌記者が、昭和四五年一〇月ごろ、原告に右ノートを出版することを勧めた。原告は、一定の条件を付してこれを承諾した。右ノートは、「無知の涙―金の卵たる中卒者諸君に捧ぐ―」と題して、合同出版から、昭和四六年三月一〇日に発行された。右「無知の涙」は、後に角川文庫版となつた。

なお、原告には、「無知の涙」以外に、辺境社「人民をわすれたカナリアたち」(後に角川文庫版となる。)、合同出版「愛かー無か」、辺境社「動揺記―」、及び、JCA出版「反―寺山修司論」(昭和五二年一二月一五日初版発行)の著作がある。

4  井手孫六らは、原告に対する判決を引き延ばすため、原告に対し、助川弁護人らいわゆる第一次弁護団の解任を勧め、かわつて合同出版顧問弁護士山本博のほか森長英二郎弁護士、後藤昌次郎弁護士らに原告の弁護人になることを依頼し、その承諾を得た。その結果、いわゆる第二次弁護団が結成された。

5  ところが、原告と第二次弁護団との間において、静岡事件の取り扱いなどの訴訟進行方針をめぐつて対立する等意見の衝突を生じた。そして、第二次弁護団は、前記認定のとおり、辞任あるいは解任により崩壊していつた。また、井手孫六らも、原告のもとを離れた。

6  他方、第二次弁護団が崩壊する過程で、原告を積極的に支援しようとする者も集まつた。右支援者らは、“連続射殺魔”永山則夫の裁判の現状を知りカネをあつめる会(略称あつめる会)を結成し、大阪と東京を中心に活動を始めた。すなわち、あつめる会は、原告の「死刑廃止のための全弁護人選任を訴える!」と題する書面を弁護士に郵送したほか、原告の意見・主張を伝えるため、原告の公判廷における意見陳述、現段階プロレタリア犯罪観シリーズ等を掲載した「“連続射殺魔”永山則夫」(通称赤パンプ)と題する小冊子を発行した(「“連続射殺魔”永山則夫」は、昭和五〇年五月に一号が発行され、昭和五四年一月二五日までに五号が発行されている。)。また、あつめる会では、機関誌として「野草通信」を発行している。

東京あつめる会は、昭和五二年五月、“連続射殺魔”永山則夫の反省―共立運動と改称した。関西あつめる会は、昭和五二年九月、原告を批判し、永山裁判の支援運動から離れていつた。

7  また、原告の支援者は、永山事件の国選弁護人推せんの依頼を受けた東京弁護士会に抗議するため、昭和五二年一〇月二七日から五日間にわたるハンガーストライキを行つている。更に、静岡事件の糾明を訴えるため、昭和五四年に入つて、国会に対する請願運動を行つている。

三(原告に関する新聞の報道について)

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

1  昭和四六年六月一八日の朝日新聞は、「永山に死刑を求刑」との見出しで、検察官は、「永山の著書や法廷での言動をみると、資本主義のひずみで貧困を生む社会機構に責任があるかのように考え、自分の犯した罪に対するきびしい反省がない」などときびしく論告した、「ヒゲをはやした永山は、この極刑を求める宣言に、別に動ずる様子もみせなかつた」旨報道している。

2  昭和四六年六月一八日の毎日新聞は、「孤独な集団就職の少年の異常な犯罪として騒がれ、また法廷では自ら犯した大罪におののき、貧しい生いたちや、無知だつた自分へののろいを語り続けてきた永山だつたが、この日、極刑を求める検察官の論告にマユ一つ動かさず、他人事のように聞き流していた。ベストセラーにもなつた獄中記「無知の涙」の中で永山は、自分の犯した殺人を「資本主義がもたらした社会のひずみ、すなわち貧困からくる無知があのような凶悪事件を引起こす原因となつたのだ。共産主義社会にならなければ同じような犯罪は再び起こる」と記している。そうした永山の“論理”が若い人たちに共感を呼ぶのだろうか、この日の法廷も長髪やコットンズボンをはいた学生で埋まつた。」旨記載している。

3  昭和四六年七月一五日の朝日新聞は、当世凶悪事件被告気質と題して永山事件を取り上げ、原告について「東京拘置所の独房でマルクス、エンゲルス、フロイト、実存主義などの書物を乱読し、資本主義をのろう心情に満ちた獄中記を出版した。法廷では「こういう事件を起したくないなら、あんた方、共産主義社会を作りなさい」などと“警世的名言”をいくつもはいている。その論理は「自分の犯罪は無知が生んだ。無知は貧乏で教育を受けられなかつたためだ。その貧乏は資本主義が生み落した」という趣旨である。永山は弁護人を「先生」とは決して呼ばない。「あんた」という。六月十一日の論告求刑公判。死刑を告げる検事の顔を、被告席の永山は首をかしげた姿勢で見つめていた。時に、あごをなぜ……。論告がさわりにはいつたとたん、突然立上がり「裁判長、便所へ行きたい」。死刑の求刑を聞いても動ずるふうもない。その四日後、何の理由も告げずに三人の弁護人を解任した。この弁護人らはほとんど無償で弁護に当つていたのだが、永山にかかると、べつだん、どうということもないようだ。拘置所に面会に行つた弁護人の一人に「あんたはオレの思想を弁護するには限界があるようだ」と、理由をひとこと語つただけだという。殺人犯というよりはむしろ、学生事件の確信犯被告に近いイメージである」と記載した。

4  昭和四六年一二月二日の朝日新聞は、「弁護人の解雇と裁判官の転任のため永山裁判はやり直しになつた」旨報道したが、その中で「この日の公判で、海老原裁判長は永山に意見を述べさせた。長髪、長いモミアゲに薄茶コールテンの背広と若者スタイルの永山は、両手をポケットに突込んだまま、「これまで裁判は事後処理的に進められてきた」「プロレタリアートを根底から裁くにはマルクス主義的経済学者を法廷に連れてくる必要がある」などと述べた。ある時は学生のアジ演説のような、ある時は声優が詩を朗読するような永山の口調に、傍聴の学生たちは身を乗出して聞いていた。」と報道した。

5  昭和五二年五月二五日の朝日新聞は、「永山の弁護人辞任」との見出しで、二四日に開かれる予定であつた第五八回公判は、「永山の弁護人三人が簑原裁判長の訴訟指揮などを不満として二十三日付で弁護人を辞任したため延期となつた。この事件で弁護人が辞任したのは、四十六年六月に行われた検察側の死刑求刑後三回目」と報じた。

6  昭和五三年九月七日の朝日新聞は、「永山事件の公判が一年四か月ぶりに再開された」旨報道し、「審理中断の原因は、同被告が、自分の犯した全事件の原因、動機を明らかにしたいとして、不起訴になつている「静岡事件」の審理を要求したためだが、再開公判の弁護を務める第四次の国選弁護団と被告との間でもこの問題については意見が一致しておらず、再開公判もまた前途多難のようである。永山の裁判は、四十四年八月の初公判から四十六年六月の検察側の死刑求刑までは順調に進んだ。死刑求刑直後に、被告が第一次弁護人を解任。四十八年五月の公判で永山は「起訴事件以外にも犯した事件がある」と、みずから放火などの「静岡事件」を告白、追起訴を強く求めた。「自分の犯した事件のすべての意味を明らかにすることで、殺人なき社会をつくりたい」というのがその主張である。第二次弁護人も永山が五十年三月に解任。同被告の“公募”に応じた第三次弁護団は、「静岡事件」の取り扱いをめぐつて裁判所と対立、昨年五月に辞任してしまつた。この事件は、殺人事件など重い罪のため、弁護人なしの審理は行えない。そこで簑原裁判長は、昨年九月東京弁護士会に国選弁護人の推薦を依頼した。同会はこれを受けたが、実際に引き受ける弁護士がいなかつたことから、当時同会の国選弁護運営委の正副委員長だつた秋知和憲弁護士ら三人が、やむなく弁護を引き受け、ことし三月六日に第四次弁護団となつた。しかし、永山とその支援グループは「国選の選任は、事件処理への協力をねらつたもので反対。被告と信頼関係にある第三次の私選弁護団を復帰させるべきだ」と主張、これまで二回開かれた準備手続きでも、被告が裁判所だけでなく弁護人とも対立するという状態のまま、公判再開となつた」との記事を掲載している。

7  昭和五四年三月一日の読売新聞は、「同年二月二八日の公判で再び死刑が求刑された」旨報道したが、裁判の経緯について、「裁判は、四十六年六月、検察側が死刑求刑した直後、同被告が弁護人を解任。その後も裁判官の交代や弁護人の辞任などが相次いで、審理がストップ。昨年三月、国選弁護人が選出されて、審理が再開されていた」と報じた。

8  昭和五四年三月一日の朝日新聞は、「原告に対する再論告求刑公判が同二月二八日に開かれ、検察官は原告に再び死刑を求刑した」旨報じ、裁判の経緯について、「永山の裁判は四十四年八月の初公判から四十六年六月の死刑求刑まで順調に進んだ。死刑求刑直後に、被告が第一次弁護人を解任。四十八年五月の公判で永山は「起訴事実以外にも犯した事件がある」と、みずから放火などの「静岡事件」を告白、追起訴を強く求めた。「自分の犯した事件のすべての意味を明らかにすることによつて、殺人なき社会をつくりたい」というのが永山の主張。第二次弁護人も五十年に解任。永山の“公募”によつた第三次弁護団も「静岡事件」の取り扱いをめぐつて五十二年に辞任し、裁判所の要請で弁護を引き受けた国選の弁護団が昨年九月からの再開審理を担当。再開審理では「静岡事件」について若干の審理がなされるとともに、弁護側申請のもとに、四十九年に提出された東京都精神医学総合研究所員、石川義博氏の精神鑑定結果をもとに、弁護側は犯行時の永山が心神耗弱、喪失状態にあつたとする立証につとめてきた」との記事を掲載した。

四(週刊新潮の記事等について)

被告佐藤亮一が新潮社の社長であり、被告野平健一が新潮社発行の週刊誌「週刊新潮」の発行・編集人であること週刑新潮昭和五四年三月一五日号において『まだ生きていた「永山則夫」』なる記事が掲載されたこと、甲事件請求原因2(一)ないし(六)のうち原告指摘の文言があることは、原告と甲事件被告らとの間において争いがない。右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

1  新潮社は、書籍・雑誌の出版を業とする会社であり、週刊新潮等を発行している。新潮社には、新潮編集部、芸術新潮編集部、小説新潮編集部等幾つかの編集部がある。週刊新潮編集部もその一つで、週刊新潮編集部を担当している。週刊新潮編集部は、編集長一名、副部長二名、部長職編集委員一名、次長一名、編集委員数名のほか二〇名近くの編集部員からなる。

被告野平は、週刊新潮編集部の編集長であり、週刊新潮の発行・編集人として週刊新潮の編集にあたつている。

被告佐藤は、週同新潮の代表取締役社長であるが、週刊新潮の編集には何ら関与していない。

2  昭和三五年ごろ、週刊新潮編集部では、新聞の論説にあたるような欄を週刊新潮に設けることが検討された。そこでは、新聞の論説がおもしろくなく一般に読まれていないと考えられるので、読者に読みやすく分かりやすい形の論説にすること、また、日本人記者が現実に巻き込まれているのと違い、外国人記者は物事を非常に突き放して見るため、しばしば日本人の見えないところまで外国人記者には見えることから、外人の記者が書くという形式で、日本人が普段当り前と思つている事柄を、外人記者と同じ態度で冷静に論理的に見直し、そこに矛盾点あるいはおかしな点があることを指摘していくことが決められた。その結果、週刊新潮昭和三五年一二月一二日号から、S・P・I特派員ヤン・デンマンという仮名で書かれる東京情報欄が設けられた。当初部外者に東京情報欄の執筆を依頼していたが、やがて週刊新潮編集部内で東京情報欄を執筆するようになつた。

昭和五四年三月当時は、週刊新潮編集部長職編集委員亀井龍夫が東京情報欄を執筆していた。

3 亀井は、昭和五四年三月一日の朝日新聞及び読売新聞で前記三7及び8のとおり永山事件に関し再度の求刑がなされた旨の記事を読んだ。亀井は、永山事件が一〇年以上もかかつて結論が出ていない事実をもとに、長過ぎる裁判に対する批判を記事にしたいと考えた。そこで、新聞の縮刷版を調べて永山事件に関する記事を読み、更に永山事件に関係した編集部員から思い出話しを聞いた。亀井は、右取材と自己の記憶に基づき、長過ぎる裁判を批判し、刑事事件の公判の開廷についての暫定的特例を定める法律案に賛成する立場から、『まだ生きていた「永山則夫」』と題する記事を書いた。しかし、亀井は、原告個人に対する積極的害意や原告に対する人身攻撃の意図をもつて、右の週刊新潮の記事を作成したものではない。

4  亀井の書いた『まだ生きていた「永山則夫」』と題する記事は、別紙(四)のとおり、昭和五四年三月一五日号の週刊新潮の東京情報欄に掲載された。

五(日刊ゲンダイの記事等について)

被告野間惟道が日刊現代社の社長であり、被告三浦宏之が日刊現代社発行の日刊ゲンダイの編集長であること、被告藤田学が日刊ゲンダイの記者であり、昭和五四年七月五日東京拘置所面会室において原告を取材したこと、昭和五四年七月九日発行の日刊ゲンダイ同月一〇日号に「あの人はいまこうしている」との原告に関する記事が掲載されたこと、右記事の中の原告指摘の文言が存在すること、原告が被告藤田に対し、静岡事件の過程で警察が原告を犯人と知りながら原告を尾行して泳がせ当時行き詰まつていた少年法改正の世論操作のため「十九才の凶悪犯罪」として利用したこと、この権力尾行の事実を隠すため静岡事件の直後三億円事件を警察の謀略として引き起こしていること及び右のような重大事実が判明する静岡事件について審理しないまま極刑を下すことは裁判所自体が権力犯罪の隠ぺいに手をかすものであり静岡事件の審理をせずして判決を下すこと自体許し難いものである旨説明したこと、原告の知人らが被告藤田に対し原告逮捕後の捜査官が静岡事件当時尾行していなければ分らぬはずの事実を知つていたこと、静岡事件当時の静岡県警刑事部長が原告の動きを知つている言動をとつたこと及び指紋照会についての疑問について説明したことは、原告と乙事件被告らとの間において争いがない。〈証拠〉によると、次の事実が認められる。

1  日刊現代社は、首都圏を中心に販売される日刊誌「日刊ゲンダイ」を発行している。被告野間は、昭和五四年七月当時日刊現代社の社長であつた(昭和五五年初めごろ、社長を辞めている。)。被告三浦は、日刊ゲンダイの編集長である。被告藤田は、日刊ゲンダイの記者である。

2  日刊ゲンダイには、昭和五三年三月から「あの人は今こうしている」との欄が設けられた。「あの人は今こうしている」との欄では、かつて話題になつた人が、今、どこで、どのようなことをしているのか、を取材し、記事にしていた。

3  昭和五四年六月五日の編集会議において、「あの人は今こうしている」との欄で原告をとり上げることが決められた。被告藤田が右取材にあたることになつた。

4  被告藤田は、まず大宅文庫を訪れ、日刊誌、週刊誌を調べて、原告に関する資料を集めた。その中で、原告に支援組織があることを知り、支援組織に連絡をとつた。

5  被告藤田は、昭和五四年六月二〇日、支援組織の責任者住沢健一に対し、電話で「あの人は今こうしている」との欄に原告のことを記事にしたいので、取材に協力してほしい旨申し入れた。住沢は、仲間と相談すると答えた。翌二一日、住沢は、被告藤田に取材に協力する旨連絡した。

6  昭和五四年六月二五日、被告藤田は、住沢と会つた。住沢は、被告藤田に対し、原告の刑事裁判の経緯(裁判官の交替や弁護人の辞任など)や原告と三億円事件との関連などを話した。被告藤田は、住沢に原告と面会できるように手配してほしい旨依頼した。

7  昭和五四年七月五日の午前一一時から三〇分間、東京拘置所において、被告藤田は、原告と面会した。原告は、被告藤田に対し、静岡事件の過程で警察が原告を犯人と知りながら原告を尾行して泳がせ当時行き詰まつていた少年法改正の世論操作のため「十九才の凶悪犯罪」として利用したこと、この権力尾行の事実を隠すため静岡事件の直後三億円事件を警察の謀略として引き起こしていること、及び、右のような重大事実が判明する静岡事件について審理しないまま極刑を下すことは裁判所自体が権力犯罪の隠ぺいに手をかすものであり静岡事件の審理をせずして判決を下すこと自体許し難いものである旨説明した。更に、原告は、今マルクス・エンゲルス全集等を読んでいること、判決が極刑になるかならないか分らないが、刑罰権に対して貧民には報復権がある旨、判決については控訴するであろうこと、静岡事件の公開糾明を求める請願行動をしているので、協力してほしい旨、及び、原告(オレ)はできることを目いつぱいやつてとにかく戦つてみるつもりである旨等述べた。

8  被告藤田は、原告との面会を終えた後、喫茶店において、原告の支援組織の一員である武田和夫から、一時間以上にわたり主として静岡事件について説明を受けた。すなわち、原告逮捕後の捜査官が静岡事件当時尾行していなければ分らぬはずの事実を知つていたこと、静岡事件当時の静岡県警刑事部長が原告の動きを知つている言動をとつたこと、及び、指紋照会についての疑問があることの説明を受けた。

9  被告藤田は、以上の取材を終えた後、記事の原稿を作成した。被告藤田は、原告のしやべつた言葉をそのまま記事にするのでなく、読者に理解しやすいように文脈を整え、原告の訴えたところを要約したものを、原告が話した言葉として記事にした。その際、原告の主張を強調するため、原告の言葉を強いた語調にした。

10  被告藤田は、書き上げた記事の内容について確認をとるため、昭和五四年七月六日、住沢に電話した。被告藤田は、原稿を五行ないし一〇行位に分けて読み上げ、事実の確認を求めた。住沢は、原稿に静岡市内の三菱銀行とあるのは三菱銀行静岡支店が正しい、警官を訴えと書いてある部分は告訴したと書くべきである旨の二点を指摘した。しかし、住沢は、右の点以外については訂正・変更を求めなかつた。右確認には、四〇分ほどかかつている。

11  被告藤田は、住沢の指摘に従つて原稿を訂正した。その後、被告三浦が原稿に目を通した。

12  被告藤田が書いた右記事は、別紙(五)のとおり、昭和五四年七月九日に発行された同月一〇日号の日刊ゲンダイに掲載された。

被告藤田学本人尋問中には、日刊ゲンダイの記事の原告発言部分は原告の発言したとおりを記述したものであるとの趣旨に受け取れる供述部分がある。しかし、被告藤田自身が他方で原告の発言を読みやすいように編集したと供述しており、また、〈証拠〉の記載内容に照せば、被告藤田学の右供述部分は、前記9の認定を妨げるものではない。他に右認定を覆するに足る証拠はない。

第二(甲事件につき)

前記第一で認定した事実に基づき、原告の甲事件請求の当否について検討する。

一前記第一、四、2及3認定の事実並びに本件の週刊新潮の記事の内容に照せば、本件の週刊新潮の記事は論評の一つと認められる。

二ところで、民主社会においては言論等表現の自由が最大限に保護されなければならない。民主社会において、人々は、批評し意見を述べる自由を有する。他方、個人の名誉も保護されるべき法益である。この二つの法益の調和を図るためには、公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事であるような事項については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正であるかぎり、いかにその用語や表現が激しく辛らつであろうとも、またその結果として、被論評者の社会から受ける評価が低下することがあつても、右論評は違法性を欠き、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない、と解するのが相当である。そして、論評の「公正」とは、その意見・批判が客観的に正当である必要はなく、論評者が主観的に正当であると信じてなされればよい。また、論評の前提となる事実の陳述については、主要なる部分について事実であるか、あるいは、論評者が真実と信じかつ真実と信ずるについて相当の理由があれば、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない、と解すべきである。

三これを本件についてみるに、

1  本件の週刊新潮の記事が、公共の利害に関する事項であり、かつ一般公衆の関心事である事項を論じていることは明らかである。

2  また、記事の内容が、原告の公的活動とは無関係な私生活の暴露や人身攻撃にわたるものでないことも明らかである。

3 そして、前記第一、四、3で認定したとおり、亀井龍夫は、本件の週刊新潮の記事の内容が永山裁判を含めた長過ぎる裁判に対する意見・批判として正しいものと信じて、右記事を執筆した、と認められる。

4 論評の前提となる事実は、前記第一、一ないし三で認定した事実に照らせば、主要なる部分において真実である、と認められる。

すなわち、

(一) (弁護人の選任・解任及び辞任の経緯について)

(1) いわゆる第一次弁護団の解任は、裁判を引き延ばすことを図つた井出孫六らが原告に勧めたものではある。しかし、原告が井出孫六らの要請に応じ、被告人として自己が有する弁護人解任権を行使したことは、前記認定のとおりである。

してみれば、永山が第一次弁護人を解任したとの記述は、何ら真実に反するものではないと認められる。

(2) 第二次弁護人団のうち、主任弁護人は、辞任している。しかし、他の弁護人及び特別弁護人のうち実際の弁護活動を行つていた者は、思想的不一致を理由に原告から解任されていることは、前記認定のとおりである(小野弁護士は、再度弁護人に選任されたが、原告から辞任を求められ、結局弁護人を辞任している。)。原告も、裁判所における意見陳述の際、主任弁護人が理由にならない理由で辞任し、これを契機に一旦一人の特別代理人を残し弁護団を解任した旨陳述している。

してみると、第二次弁護人には、辞任した者と解任された者とが含まれるが、主任弁護人を除き実際の弁護活動を行つていた弁護人は現に原告により解任されており、その他の辞任した弁護人も原告による実質的な解任に近いものであつたと推認されるから、第二次弁護人も解任との記述は、基本的に真実に反するところはないと認めるのが相当である。

(3) また、第三次弁護団は、訴訟進行について裁判所と意見が対立して辞任している。そして、その結果、裁判は一年近く空転した。裁判所はやむなく国選弁護人を選任しているが、原告が右国選弁護人に対し再三辞任を強要していることは、前記認定のとおりである。

(4) とすれば、「八年前の死刑求刑の直後に、永山が弁護人を解任、さらに第二次弁護人も四年前に解任、永山の公募に応じた第三次弁護団は二年前に辞任、手をやいた裁判所の要請で国選弁護人が選任されて、去年の九月からようやく審理が再開され」たとの記述は、何ら真実に反するものではないと認められる。

(二) (篤志家の論理について)

(1) いわゆる第二次弁護団の冒頭陳述によれば、原告を犯行に追いやつたのは、貧困と無知を生み出した経済・社会制度、福祉制度であり、教育制度である旨主張している(ただし、原告は、自己の犯した事件の原因をすべて自分の外に求めて、ひらきなおろうとしているわけではない、とも陳述している。)。

(2) 原告が、法廷における陳述及び著書等によつて、右冒頭陳述と同趣旨の主張を行つていることは、前記認定の事実からこれを認めることができる。

(3) 井出孫六らいわゆる文化人が、原告の考えに共鳴しこれを支援していたことは、前記認定のとおりである。また、原告を支援する人々が“連続射殺魔”永山則夫の裁判の現状を知りカネをあつめる会(後に、“連続射殺魔”永山則夫の反省―共立運動と改称した。)を結成し、原告に対する支援活動を行つていることも、前記認定のとおりである。

(4) とすれば、「彼が犯罪をおかしたのは当人が悪いのではなく、彼を取り巻く社会と、社会の歪みが悪いのだということになつて、現に、永山則夫を支援する“篤志家”は、もつぱらその論理を展開してやまない」との文章は、真実に反するものではないと認められる。

(三) その他、本件の週刊新潮の記事に記述された事実は、前記第一で認定した事実に照せば、その主要なる部分が真実に反するところはない、と認めるのが相当である(原告の指摘するところは、多くが執筆者の意見・批評ないし判断を問題にするにすぎない。)。

以上検討したところによれば、仮に本件の週刊新潮の記事により原告の社会から受ける評価が低下することがあつても、右記事は違法性を欠き、亀井は名誉毀損の責任を問われることはないと解するのが相当である。

四してみると、週刊新潮の記事によつて違法に名誉を毀損されたことを前提とする原告の甲事件請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないことになる。

第三(乙事件につき)

次に、前記第一で認定した事実に基づき、原告の乙事件請求の当否について検討する。

一思うに、名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な社会的評価をいうものであり、名誉毀損とは、右のような社会的評価を低下させる行為である、と解される。そして、一定の新聞記事の内容が名誉を毀損すべきものかどうかは、一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきである、と解するのが相当である。

右のような見地から、原告の主張について以下判断する。

二(請求原因2(一)について)

日刊ゲンダイの記事に、「……極刑になるにしても、オレ、裁判でどうしても闘わなきやならないことがあるんだ」「どのような判決が下されるにしろ、静岡事件究明のため「もちろん控訴するつもりだ」と最後に言い切つた」との記載があることは、前記認定のとおりである。

しかしながら、右記載をもつて、静岡事件の糾明を訴える原告の正当かつ真剣な姿勢につき、著しい誤解を生ぜしめるものと認めることはできない。すなわち、右記事の内容が、一般読者の普通の注意と読み方とを基準として、静岡事件が判決を左右せず事件の本質を外れたものとして原告の主張をゆがめ、国会請願署名の訴えにも触れなかつたため(原告が国会請願について説明したことは前記認定のとおりである。しかし、被告藤田が国会に対する請願行動を記事にするとの約束をしたとの事実は認められず、また、国会請願の件に触れなかつたからといつて、直ちに記事の内容が原告の名誉を侵害することになるとは解し難い。)、静岡事件糾明を訴える原告の正当かつ真剣な姿勢に著しい誤解を生ぜしめるものと、一般読者に受けとられると認めることは到底できない。

したがつて、右記事の内容が、原告の名誉すなわち社会的評価を低下させたとは認め難い。

三(請求原因2(二)について)

日刊ゲンダイの記事が、静岡事件について、「たしかにこの事件には矛盾点がいくつかある。たとえばこの事件の直前に“連続射殺事件”犯人逮捕のため警官七万人を動員した全国的捜査が行われ、静岡県に準特捜本部が置かれていたにもかかわらず、ピストルを持つた被告を簡単にとり逃したばかりか、一つしかない銀行の出入口に警宮は張り込ませてなかつた、などだ」と記載していることは、前記認定のとおりである。

しかしながら、右記事の内容が、一般読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、原告の主張する権力尾行の犯罪について、その根拠が右記載されたものだけであり、原告の主張に著しい誤解を生ぜしめるものと、一般読者に受けとられるとは認め難いから、原告の社会的評価を低下させると認めることはできない。

四(請求原因2(三)について)

被告藤田は、原告の発言を記事にするためこれを要約・整理したが、その際、原告の言い分を強めるため本件の日刊ゲンダイの記事のとおり原告の言葉遺いを強い語調にしていることは、前記認定のとおりである。

その結果、原告の言葉遺いが若干ぶつきらぼうであると、一般読者に受けとられるであろうことは否定できない。しかし、原告の言葉を右記事に記載された程度に強い口調にしたからといつて、一般の読者に対し、原告の主張がいかにも粗野な一方的強弁であり、権力側の責任をも明らかにする公正な裁判を求めている原告の立場を著しく誤解せしめるものであるとまで認めるのは困難であつて、そのため原告の名誉すなわち原告の社会から受ける客観的・社会的評価が低下したとまでは認め難い。

五その他、本件の日刊ゲンダイの記事の内容により、原告の名誉が侵害されたと認めるに足る証拠はないから、日刊ゲンダイの記事により名誉を毀損されたことを前提とする原告の乙事件請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

第四(結論)

以上検討したところによれば、原告の甲事件請求及び乙事件請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(小林正明)

別紙(一)(二)謝罪広告〈省略〉

別紙(三)被告藤田の取材録〈省略〉

別紙(四)昭和五四年三月一五日号『週刊新潮』(次頁へ)、別紙(五)昭和五四年七月一〇日号『日刊現代』(次頁へ)

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